それから20余年後、万冶年代(1658〜1660)に富山藩の老臣、奥村蔵人が藩祖(前田利次公)から紅葉坂南側の五時谷一帯の土地を拝領、明神山頂上近くに七面宮を建て、甲州(山梨県)身延山の七面大明神(当初は日蓮宗総本山久遠寺の守護神、のち法華経の守護神となる)と同型の木像を祀って礼拝、歴代藩主の手厚い庇護を受けた。
しかし、明治に入り廃仏毀釈で取り壊され、その後創建された当稲荷社に合祀され、「倉稲魂命」の祭神とともに、五穀豊穣、殖産振興、家内安全の氏神として崇敬されてきた。
平成27年3月・更新 呉羽山観光協会
茶屋町より左へ北陸道、右へ稲荷社、稲荷への途中にある案内標識
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