14.寒江の郷観光案内板 Mt.Kureha Tourism Assosiaton

呉羽山観光協会 Mt.Kureha Tourism Assosiaton

寒江の郷 案内eport





呉羽山観光協会

1.寒江地区の歴史概況

(寒江郷のはじまり)
寒江は、富山平野の中央部に位置し、古くから稲作を中心に人が住み栄えたところで、文献に初見されるのが奈良時代の天平勝宝4年(752)、「越中国射水郡寒江郷戸主三宅黒人」として出てくる。
(倉垣荘と共に下賀茂神社の荘園へ)
奈良時代の越中国は、荘園の拡大が進み東大寺の荘園が射水、砺波、新川郡に広がった。
また平安時代中期、倉垣庄として寛治 4 年(1090)下賀茂社領となり荘園の崩壊まで約500年間続いた。
(倉垣荘は、現在の射水市海老江、堀岡地区から白石地区、戸破地区、黒河地区、富山市老田地区、八町地区、北代地区など射水市東部から 富山市西部の48村、面積30 町歩、室町時代の年貢として 200 貫)
さらに南北朝(1330〜1390)の頃、現在の寒江本郷を本村として寒江地区、呉羽地区の 14 村が下賀茂社の荘園になる。 倉垣荘の各村では加茂神社があるのが特色であるが、現在の寒江、呉羽地区にはない。ただし北代に加茂社があり下賀茂社領であったなごりを残している。

(藩政時代以降の寒江郷)
江戸時代は、加賀藩の統治下で寒江組41ヶ村で組織され、改作法により農政がなされた。
その後、寛永16年(1639)に富山藩が誕生して組込まれ、藩境になった。
やがて明治を迎え廃藩置県など経て、明治22年4月(1889)市町村制度により本郷、大塚、中沖、野田、野口、野、北二ツ屋の7ヶ村で寒江村が誕生し、本郷に戸長役場が置かれた。
その後、昭和29年3月(1954)呉羽村、長岡村、寒江村、老田村が合併し呉羽町となる。さらに昭和40年4月(1965)富山市に合併し富山市となる。

2.近代化での寒江地区

射水平野は神通川と庄川に挟まれた地域で、下条川、鍛冶川が放生津潟に流れ込む湿田地帯で、その東部に位置する寒江地区も同様に灌漑用水の確保と排水に苦しめられてきた。
なかでも新田開発のため加賀藩は、用水確保に精を出し、寛永元年(1624)に「牛ヶ首用水」に着手した。その後富山藩の誕生(寛永16年1639)もあって承応3年(1654)に完成し安定した用水確保が出来た。
他方排水は、河川改修など大規模なだけに進まなかった。明治に入って庄川、神通川の河口改修、大正の下条川改修など進められたが、本格的には、昭和38年から昭和51年にかけて国営かんがい排水事業、昭和39年、富山新港事業などにより乾田化及び湛水防除がなされた。

3.寒江地区のみどころ
 @寒江本郷二上神社


本郷の西北、鍛治川沿いに二上神社がある。ご神体は木造の観音様で高岡市の二上神社の分神と 言われている。 この寒江の郷は、平地のため用水や排水の確保に 苦しんでおり古くから地割をなしていた事がうか がえ、現在地名に蔵面坪、東坪などが残る。 これら一大事業に当たり西側に眺める二上山の二 上神様の力を借りるため神社を建立したものとされる。また本殿前の室町時代の狛犬がご神体と ともに現在拝殿内に保管されており神仏混淆の特 色が残っている。

A旧北陸街道の加賀藩との藩境、願念寺及び三界萬霊の碑(野口)


旧北陸街道は、野口の村はずれを超えて加賀藩 の願海寺にはいる。地元の人は、この道を「往還」と言っている。この藩境では、慶応4年3月(1868)に新政府 軍、北陸道鎮撫軍総督が勅書に対する請書を求め て富山藩入りをした時、富山藩士森田三郎が野口 の「願念寺」で待機し、藩境で出迎えたとされ、自らの日記に書き記している。
願念寺は、藤白山と称するが、古文書によると、次 の話が寺伝として語られてきている。 もとは応永 11 年(1404) 、新川郡布施川で開基し た真言宗憲念寺で、その後現在の野口村に移転し た。 宝徳元年(1449)憲誓住職のとき、蓮如上人が 1 1日間滞在され、その時いろいろ教えを受けた住 職は、願憲の名を頂いた。その後、応仁の乱のと き、江州堅田に非難されていた蓮如上人を訪ね 7 日間の教えの中で、浄土真宗に宗派替えされ願念 寺の寺号を受けた。 願念寺は、上杉謙信の越中攻めと豊臣秀吉の 佐々成正攻めのとき、2度焼火を浴び多くのものを失っているが、地元住民など関係者の篤い信仰心により支 えられてきている。

また街道沿いの村はずれに古い地蔵尊(高さ1.7メ ートル)がブロック塀に囲まれて立っている。天保4年 3 月(1833)の造りで台石に「三界萬霊」と刻まれており、昔 から道筋にあって旅人の安全と道標の役目をもっ ていたものと思われる。

B)「銀坊主」の生みの親・石黒岩次郎


野口の北陸本線の踏切のわきに石碑が建つ。明治 時代は良い稲株を選り分けて品種改良を行った。 野口に住む石黒岩次郎は、家の前で試験田を作る など稲の品種改良に 20 年もの年月を費やし努力を 重ねていた。ある時田んぼの一株にすっくと立っ ている稲を見つけモミの多さ、株の根張りなど に優れた品種を発見し、これを「銀坊主」と名付 けた。その後、またたく間に全国や朝鮮までに広 がったが、これを知らずに 63 歳の生涯をとじた。 昭和 3 年、町田忠治農林大臣の手により岩次郎の 功を讃える石碑が建てられた。

C常在山・自得寺(本郷中部)


常在山自得寺は、曹洞宗の名刹で大本山総持寺の直末である。もと真言宗寺院で創立は建徳年中 (1370〜1371)。開基は、権大僧都竜恵法印で、開 山は法印入滅後の応安7年(1374・北朝の年号、 建徳と同年代)、本山総持寺四世無際禅師を懇請し て始祖とした。 この時に、真言宗から禅宗の曹洞宗の寺院となっ た。
寛永14年(1637)に、加賀藩三代藩主前田利常から 1200 歩の領地を拝領した。明治3年の合寺令により、伽藍等が 取り壊されたが、同5年に梵鐘、法器、一切経などが復元 された。 宝物に延命地蔵石仏坐像(33年に一度御開帳)、聖観世音 木像立像、俄山禅師遺品(無際禅師は総持寺二代俄山禅師 の高弟)の柱杖などがある。
また境内に高さ2m に及ぶ南北朝時代の宝 篋 印 塔 (県指定文化財)があり、自得寺の当時の隆盛を表している。

D蓮台寺の戦い

室町時代、永正3年(1506年)3月、越中守護代神保慶宗は、突如侵入した加賀一向一揆に敗退し、越後守護代長尾能景を頼る。神保慶宗は、要請に応えて8月に越中に来援した長尾能景と共に婦負郡寒江蓮台寺の戦いにおいて一揆勢を撃破した。その後神保勢は長尾軍に対し非協力的となり、続く般若野の戦いで長尾勢が一揆勢に敗北し、能景も討死を遂げた。なお蓮台寺は焼失し、所在地不明となっている。

E瀧口修造の墓(大塚)


詩人で美術評論家である瀧口修造(1903〜1979)の墓が大塚・龍江寺の境内に建っている。

富山県婦負郡寒江村大塚で 3 人姉弟の長男として生まれる。家は医者であったが、医者にはなりたくないと 1921 年富山県立富山中学校(現富山高校)卒業後、上京する。 1931 年、慶應義塾大学英文科卒業。翌年、PCL 映画製作所(現在の東宝)に入社。 1935 年、妻・綾子と結婚。 1979 年に死去。瀧口の所持していた一万点に及ぶ美術資料は、多摩美術大学にて瀧口修造文庫として保存され ている。
瀧口修造は、 詩作と美術評論を軸に、戦前はシュルレアリスム(超現実主義)を日本に紹介した一人として、 戦後は国内外の前衛的な芸術表現を見つめ、擁護した存在として知られている。 富山県美術館には、国内外の作家たちから贈られた様々な作品と、親しかった誰かの旅の土産や瀧口が拾っ たかもしれない石ころ、貝殻などが「瀧口修造コレクション」として収納されている。
※瀧口修造の墓石は龍江寺山門を入り墓地の一番左奥にあります。